僕はあまり勝ち負けにこだわりません。若い頃は負けず嫌いで、些細なことでも負けるのを嫌がり、負けを受け入れられませんでしたが、いつの頃からか悔しさが無くなり、負けを受け入れられるようになりました。
いったいいつ頃からかを思い返してみると、もしかするとトライアスロンを始めてからかなと感じています。だって、どうやっても勝てないバケモノみたいな同世代がいるんですよね。努力は裏切らないとか、やればできるとか、そんな薄っぺらい言葉、クソの役にも立たないほどの才能の差を見せつけられるわけです。どんなに努力しようとも、まったく追いつける気配もありません。なんなら努力できる範囲の差も見せつけられます。あんなにやったら壊れちゃうよ…、という練習量をこなせるかどうか、というのも才能だったりするんですよね。もう、悔しいなんて感じることすらおこがましく感じるほどの才能の差。それでも続けていくには、どこかで自分の気持ちと折り合いをつける必要があるわけです。
そんなことを考えていて思い出したのが、故・野村克也さんが楽天イーグルスの監督時代に、取材陣の前で言った言葉「勝ちに不思議な勝ちあり 負けに不思議な負けなし」でした。どんなスポーツでも、たまたまハマって、あるいは相手のミスが重なったりして勝つという、勝った側からすると不思議な勝ちというのは、稀ではあっても有ります。逆に負けたときというのは、なんで負けたのか分からないなんてことはなく、自分たちのミスや取りこぼし等、ちゃんと理由が分析できる。
大人になると、いろいろと敗因を冷静に分析できるようになり、悔しさは覚えなくても、次に繋げることはできる。特にトライアスロンやトレイルランニングはチームスポーツや球技ではなく、シンプルに個の能力、それもとても原始的な能力を競うスポーツであり、どんな結果が出たとしても、それはすべて自分が責任を負うだけなので、敗因もスッと受け入れられるようになったのかもしれません。
そしてそれは、仕事や他のプライベートにおいても、とても良い影響を感じています。なんせイラつくことが減りました。イラついたとしても、起こったことは仕方ないし、そんなことに時間を使うよりも対策を立てようと、すぐに切り替えられるようになりました。
圧倒的な才能の差を見せつけられるのも、悪いことばかりじゃないかもしれません。